AIと「人間らしさ」
AIがルーティンワークなどを代替することで、「人間はより『人間らしい』活動に集中できるようになる」「人間は労働から解放される」という主張をしばしば目にします。
しかし、AIの得意とする領域(論理、計算、パターン認識、さらには一部の創造的作業)が拡大するにつれ、現実には「人間にしかできないこと」の範囲が徐々に狭まっているように見えます。かつてはチェスや囲碁、最近では画像生成や文章作成なども、AIが高いレベルでこなせるようになりました。
「人間にしかできないこと」が「人間らしさ」なのでしょうか?
答えは分かりませんが、現時点で考えていることを記しておきます。
資本主義社会における「人間らしさ」= 利益を生み出す力?
資本主義社会においては、活動や能力の価値は、それがどれだけ経済的利益(市場価値)を生み出すかで測られがちです。
AIが特定のタスクを人間よりも効率的(低コスト、高速、高品質)にこなせるようになると、そのタスクにおける人間の経済的価値は低下します。
その結果、「人間にしかできないこと」として残されるのは、現時点でAIよりも高い経済的価値を生み出すか、もしくはAIでは代替コストが高すぎる領域に限定されていく傾向があります。
個人的には、高度なコミュニケーション能力や課題発見力、創造力といった、直接的に利益に結びつく能力が、「価値ある人間らしさ」として強調されているように感じています。
何が「人間らしさ」として残るのか
現時点では人間のほうが優れている能力も、将来的にはAIに代替される可能性があります。
今の形の資本主義社会が続いていくのであれば、AIがさらに発展した未来には「人間らしさ」はもっと狭まるのではないかと想像しています。
最後に人間に残される役割は、「消費」なのかもしれません。AIが効率的に財やサービスを生産し、人間はそれを享受し、消費する。
これ以上考えを巡らせるには、私には知識が足りていませんが、これからも考え続けていきたいと思います。